『求めているのは、稲妻のような、強烈な一撃!! 岡本太郎の前に立つことは 』
『一発お願いします!』
と、平手打ちを求めて、若い男子が頭を下げる。
闘う魂の注入の儀式は、遠目で引いて見ていると、やっぱりちょっと滑稽に見えるし、叩かれる方もどこか、イベントの一環だから並んどけ、と実は『気合い』なんて入れて欲しくないことが丸わかりであったりして、やっぱりちょっと醒めた目をしてしまう。
そんな人が多いんじゃないだろうか。
でも、あれは、本来、人に見せるものではない。
一対一の場面において、効果を持つ、確かな『儀式』であるからだ。
ひっぱたく、ひっぱたかれる。
あれは、コミュニケーションだ。『師』から『弟子』へ。
そこに『信頼』と『尊敬』と、『あなたのようになりたい』と『崇拝』の念がなければ、無論、成立しないコミュニケーションだ。
『信じる』『強き者』からの、『愛』
暴力ではない。
痛みを求めているのではない。
求めているのは、熱だ。
そして、余分なものを剥ぎ取るだけの、勢いだ。
岡本太郎の作品の前に立つということは、ひっぱたかれるために行くことだ。
揺らいだ軸をまっすぐにするために。
いらない弱さを振り払うために。
灰汁のように湧いてくる現世の垢を落とすために。
岡本太郎の前に立つことは、禊の儀式にも似ている。
生命の爆発。歓喜。
岡本太郎は、人間の誇りをカタチにし続けた人だ。
理想的にすぎる理念を『可能だ』と言い張り、実現し続け、証明してしまった人だ。
人は岡本太郎を『神』と崇めるだろう。
人智を超えた存在は、もはや『神』と名づけるよりほかにない。
『あの御方は特別な、天命を受けた、特別な、特別な、高貴な、選ばれた御方なのだ』
岡本太郎はそんな賛辞を受け付けない。
『ただの人間』
謙虚でもなく、好かれようと欲することもなく、達観して見せることもなく、その偉業を、
『人間である限り、誰にでも可能なこと』
と体現して見せ続けた。
岡本太郎の前に立つことは、神前に立ち、礼拝するような気分をも、もたらす。
描かれている生命の爆発、歓喜。それは『モチーフ』ではないからだ。『テーマ』ではないからだ。
『生命とはかくあるもの』
と提示された、『己』であるからだ。
『鏡』を『最奥の神』とする神道にも通ずる、神々しさ。
だが、そこに、岡本太郎は、『神』を表現などしていない。
『それが人間だ』
と、剥き出しの、裸の、人間の、ただひとりの人間の姿で立つ。
『神』にひれ伏すことで得る安息を拒む、苛烈さを放ち。
岡本太郎の前で、人は裸にならざるを得ない。
堂々と、屹立する、誇り高き、裸の『人間』を前にして、どう反応したらよいだろう?
取り繕ったあれこれ、すべてをひっぱがし、真っ向からその眼を見つめるよりほかにない。
そこでの『対等な関係』をこそ、岡本太郎は真に求めたのではないだろうか。
『未熟であってもいい。未熟であるからこそ、いい』
それは、なんという優しさなのだろう。
それだけの激しさを持ち、傷つきながらも、立ち続ける巨人。
放たれる愛。
……と、またついつい『神』と見上げてしまいそうになるところを、また突っぱねられる。
目線は同じ高さにある。
『同じ人間』
『君は何者か』
岡本太郎の前に立つことは、
揺らいだ軸をまっすぐにする。
いらない弱さを振り払う。
灰汁のように湧いてくる現世の垢を落とす。
ひとりの人間として、生をまっとうするためにある。
広大にして、膨大、豊穣な岡本太郎世界の入り口として、最適かと。
巻末、敏子さんのあとがきにも、胸を打たれる。