『いっそのこと、もう“ ひな祭り ”は“ 女子の日 ”ってことで』
奉仕すればいいんじゃないだろうか。
女子はどんなワガママを言ってもよし。
期待に応えられるかどうかは、男の器量次第。
『女子の本音を言ってよい日』
と解禁してしまえば、彼女の、好きなあの娘の、本音が聞ける。聞きやすい。
女子も、もう、我慢しなくてよい。
本当に言いたいことを言えばよい。
その日だけは解禁なのだ。都合がわるくなったら、『だってそういう日だし』と『洒落のひとつですよ』と、さらっと流してしまえばよい。
女子の本音とワガママが全国的に炸裂する一日。
クリスマスとは一味違う『本音』がそこかしこで爆発する様、それは楽園を創造するのか、エゴ剥き出しの地獄の様相を呈するのか。
ちょっと見てみたい。
その日、言うなれば、男は下僕である。
常々、下僕のポジションに甘んじる男性も、その日があるおかげで、ふだんの日々を、
「3月3日のひな祭りじゃないんだから…笑」
と心安らかにすごせるのではないだろうか。
とりあえず、明日は、奉仕の気持ちを持って女性に接しよう。
これみよがしでない、さりげない、気づかれない、優しさをフルに発揮してみよう。
女子の笑いのない世界。
女子が笑えない世界。
そんな世界をつくるわけにはいかないのだから。
と、そんな熱い想いを抱いて夢想していたら、思い出した本がある。
今のところ、5冊出ている。
巻ごとに主人公が変わり、話の内容も変わるのだが、出てくるのは、皆、フェレットだ。
1巻はレスキュー隊、2巻は飛行機乗り、3巻は作家夫婦、4巻は女優、5巻は探偵。
海や空や牧場や都市や、舞台は我々が住んでいる世界と変わらない。
でも、文化が違う。
そのフェレットワールドに『悪人』は存在しない。
愛とやさしさと、誇りと尊厳と。
誰もが、その未熟さゆえに見失うことはあっても、燦然と輝く太陽のような心を持っている。
個人的には、『心温まる』『ハートウォーミング』な作品、と聞くと、敬遠してしまう性質だ。
だって、嘘っぽい。
ちょっと話はそれるが、
名の通った出版社の編集者と漫画家の打ち合わせを、横で聞いたときのこと。
「このあたりでババアとかいいんじゃないですかね。ババア出しましょうよ」
「あー、ババアかあ。こんな感じすかね」
「あー、いいすね。ババアでいきましょう」
「じゃ、ババアできまりすね」
「じゃ、ババアで」
ババア、ババア…と、
そんな漫画、誰が読むか。
と思ったのは、女性を『ババア』『ババア』と見下すような言辞が気に喰わなかったから。ではなく、
『読者をなめていた』からだ。
『物語をなめていた』からだ。
「このへんでババア出しときましょうよ」
というアイディアには、『よい作品を創る』のではなく、『ウケる作品を創る』、『読者を手玉に取れる』と思っている傲慢さが滲んでいる。
これは『表現』の世界に限ったことではない。
『よい仕事をする』のではなく、『客から金を取る』ために『仕掛け』を考える、その姿勢は同じだ。
『心温まる』『ハートウォーミング』な作品。
と聞くと、つい、想像してしまう。
ここで泣かせに入ればいいから。こんくらいやんないとわかんないからさ。わかりやすくさ。殺しとけよ。でもいい人だったってフォローもいれろよ。
操り人形。役者が演じれば、声優が声を吹きこめば、命が宿るとでも思っているのか。
いや、そもそも、作り物に命が宿るなどとは思ってもいないのか。
『フェレット物語』は、愛と勇気と好奇心、内なる正義を信じて生きるフェレットたちの物語だ。
舞台は海で空で牧場で都市で、つまり、僕らが生きている世界だ。
“もし人間として最高の善を追い求めることが当たり前の世界だったら?”
ありえるはずの世界。
しかし、どうにもならない混沌と狂気。
主人公を人間でなくフェレットにしたこと。
フェレットであったからこそ描けた世界。
『フェレット物語』は『現実』を見据えたうえで描かれた作品だ。
御伽噺ではない。
絵空事の、理想世界の、“かわいいフェレットたちが大活躍!”のこども向けファンタジー作品ではない。
『人間誰もがこう生きられるだろう?』
『こんな世界を作れるはずだろう?』
糾弾するのでなく、現実的に成し得る『心のあり方』を提示した
『フェレット物語』
そんな心根の「あれしてみたい」「こうしてみたい」「実はこんな夢がある」、女子の願いやワガママを聞いてみたい3月3日。
『フェレットクロニクルですか? いい本ですよね!』
という娘がいたら、間違いなく、いい娘だと思います。