『たすけて、心が壊れそう』
夜にちいさく軋むなら、読むといいよ。
素っ晴らしい評論である。
時代を超えて読み継がれる、強い本である。
タイトルとカバーで、
「その時代のヒーロー物の評論なんでしょ」と思いがちなのだが、これ、
現代の物語論である。現代の。
初出は1988年。現在2015年。
その間、変わることなく、病み続け、密かな願い抱き続けている " 現代都市に生きる我々 " の評論であり、処方箋であるという、今後、とある類の人々には読み継がれていかねばならない一冊である。
心が閉じてしまうような、とりあえずはうまくやってはいけているけれど、ひとりの夜、時折、悲しみなのか寂しさなのか、押し寄せ、襲われ、さらわれそうになる人は、ぜひ、もう、お読みいただきたい一冊である。
作家であり、評論家である著者の息子が4歳になった折、とつぜん、戦隊ヒーロー『フラッシュマン』に目覚めたということから始まる、思索の旅。
この書が、時代を超える、というのは、『フラッシュマン』を " 不器用だが大きな高いレヴェルでの未完成 " 作品と捉え、人間の原始心性には " 物語 " への切実な欲求が備わっているのだ、と説いているからである。
つまり、普遍なもの、について語っているからである。
なぜ我々は物語を求めてやまぬのか。その問いに明快な答えを出しているからである。
もはや世は自己という名の檻ですら、言葉にし、病名によって定義してみたり、あるいは笑ってみたりして、あたかも、その孤独を受け入れたかのように見える。
しかし、その実、何も変わってはいない。
名付けられはしたが、知の力によって納得したかのように見えるが、暗がりの子供は未だ泣き続けているという事実。
うまく隠しおおせ、あるいは、そんなものなどないかのように振る舞い、あるいは、卒業したかのように遠い目をして笑ってみせる、その余裕こそが大人の処世術、作法ではあるが、
消えはせぬのだ。消せぬのだ。
影と闇とを持ち続けるのも人の性。
永劫変わらぬ宿命なのだから。
中島梓という人の評論が、なぜ胸を打つのかと、それは、著者もまた " 渦中の人 " だからである。
外側からの傍観者ではないのである。
著者は『フラッシュマン』が表現した--製作者側の思惑には実はないかもしれない--我々が求めてやまぬ " それ " に『ロマン』と名を与える。
鋭い洞察、その視点だけでも、眼から鱗が剥がれ落ちまくるのであるが、
著者はしかし、最後に、
" ほんとうは--(略)--ああ、もう、そんなことは、どうだっていい。私は好きなのだ--私は好きだ。 "
鼻で笑って、くだらない、と一蹴されてしまうようなこと。正義であり、愛であり、ロマンである、美しくも醜くもある、この世界、感受できるすべてのこと。物語そのもの。を好きだと言い切る。
作家ならではの妄想で物語を即興で創ってみたり、気楽に愉しいエッセイ集とも読めるのだが、やはり、最後の最後の宣言を読み返すたび、ぐっときてしまう。
そう、この書は、ロマン愛する者へ贈られた、勧誘あるいは洗脳の書でもある。
だから、ごくごく一部の人にだけ、おすすめする。
でも、そのごくごく一部の人には、猛烈な勢いでおすすめする。
『コミュニケーション不全症候群』も、今と変わらぬ深層状況、本質見抜いていて。