『" 6 " には収まらず』
ざっくり西と東で分けてみる。
純粋無垢な、完璧な世界がかつてあった。そこをエデンと呼ぶ。
しかし知恵の実食べたがゆえに、無垢は失われ、善悪と正邪のはびこる世界が生まれた。
西の思想は、かつてあったところを楽園とする。
純粋無垢を、穢れなきものを、美徳とする。
一方、東は、西の神が「光あれ」と言葉発したがゆえ生まれたとする世界、それ以前を神とする。
未分化なるもの、混沌を神とする。
西の神が父的だとするならば、東の神は母的だ。
東の思想は " 今ここ " を失われた楽園と捉えない。
正邪、善悪、清澄であり汚濁である " 今ここ " を楽園と捉える。
『道』という。
道とは何か。
西で言う道とは論理であり、道理である。
東で言う道とは、食べて寝て起きて食べて、生活そのものを指す。
『自由』とは何か。
西で言う自由とは " 解放 " の意味合いが強い。
東で言うところの自由とは、" freedom " とは意味合いが違う。
融通無碍であるとか、捉われない状態のことを指す。
同じ言葉であっても、捉え方が違う。
などなど、読みこむほどに面白い。
鈴木大拙『東洋的な見方』
禅とは何か。
それは生命の言葉を知ることだ。
概念として理解するのは易いが、体得して生きるのは至難。
修行の色合い濃くなるのも頷ける。
しかし、法身とは何か、真実最後の実在とは何かという問いかけに、
「六不収」
(6の中には収まらん)と応える声。
そこに加えて、
「八角の磨盤、空裏に走る」
「6じゃない」、「分割しては捉えられん」ときて、「八角の盤が跳ね踊る」という、言葉あそびとはちょっと違う、生命の対話篇のような、禅。
躍動する思想、知るだけでも快。
知識として学ぶのでなくて、" それはもうここにある " と気付かせるための、禅。
あ、この感覚。これか。
これが東洋的な見方、世界の捉え方。なるほど、しっくり。
どう見るか。どう観るか。
そして " 山 " が " 山 " でなくなって、そこで終わり、ゴールにはならず。
そしてまた山は山となる。
命がまるごと呵呵大笑するような、すこん、と突き抜けるこの感覚。
自由にして、愉快!