その拳は、せつない
今日は豪傑に学びたい。
虎殺し武松の拳に、生き様に、生き抜く術を学びたい。
というより、これは、本来あるはずだった、本物の水滸伝なのではないか。
本読みならば、誰もがわかる、冒頭からの
(この本は、すごいぞ……!)
という、あの感覚。
酒飲みならば、誰もがわかる、口をつけたその瞬間の
(これは……美味い……!)
という、美酒に巡り合ったときの、あの感覚。
続編含めてこれがあと五十冊もあるということに、巡り合えた幸運を噛み締めずにはいられない。
" 腐った世の中だ。
まっとうな正義なんてどこにもありゃしない。
弱い者は弱い。
ずるさが賢さであり、強さであると、そんな世界で。
まっとうな世を創る。
志持った者たちが、新しい旗を掲げ、戦いを挑む。
志持った者たちが、呼応し、共鳴し、新しい風を巻き起こす "
というのが、水滸伝の大枠のストーリー。
天の星がばらまかれ、地に落ちて英雄となり、梁山泊に集まって、世直しの戦いを挑むという、" 選ばれし者たちの英雄譚 " テイストを一切なくし、豪傑たちも弱さ、愚かさ、どうしようもなさを抱えた、ひとりの人間として描いているのが、北方謙三水滸伝。
そこが、凄い。ひれ伏したくなるくらい、すごい。
後の世では、これが本物の水滸伝と世界共通認識になってしまうんではないだろうか。
武松という男がいる。
素手で虎を殺すほどの、荒くれ者である。豪傑のイメージにふさわしい、巨漢である。
胸のすくような活躍が期待できる、そんなキャラクターとして認知されていたのではないだろうか。
しかし、この水滸伝で姿を現す武松という男は、せつない。
なぜ、虎を素手で倒すほどに、その拳は固いのか。
なぜ、虎をひとりで屠らなければならなかったのか。
狂おしいほどの想い。情念。
淡々と、鮮やかに、その生が描かれる2巻がすでにクライマックス。
それでも、生きるのだ。
と、武松に学ぶ。